2月24日、スズキの鈴木修会長が退任を表明した。6月の株主総会での承認を得て相談役へと退く。日本を代表する経営者のひとりである修氏は、1978年にスズキの社長に就任して以来、40年以上にわたって同社の経営の先頭に立ってきた。現在91歳である。
鈴木修氏が社長になった3年後の81年、スズキは米・GM(ゼネラル・モータース)と提携した。その後、インド政府が進める国民車生産計画に名乗りを上げ、インド政府が81年に設立したマルチ・ウドヨグへの資本参加と商品および技術の提供を行った。82年にインド政府首脳が来日し、自動車メーカー各社を訪問したが、当時の日本は米国への工場進出が最大の課題であり、インドに関心を示したのはスズキだけだった。
インド乗用車市場でのマルチ・ウドヨグのシェアは、最盛期には80%を超えていた。最初の量産乗用車であるマルチ800は、アルトの車体に800ccエンジンを搭載し1983年12月から生産が開始され、2014年に生産終了するまでの間に250万台以上が生産された。
1992年にはスズキの出資比率が50%に拡大され、2006年にはインド政府が保有株のすべてを手放して完全民営化された。現在の社名はマルチ・スズキである。インド自動車市場の拡大と欧州および日本、韓国勢の参入が相次いで現在のマルチのシェアは40%台になったが、低価格と品質の高さから現在でも高く支持されている。
インドでの生産が始まった(83年)ばかりのころに、スズキはGMから小型車の提供を求められていた。GMがのちに小型車専門販売チャンネルとして1989年に立ち上げたジオ(GEO)にはトヨタ、いすゞ、スズキがモデルを提供したが、その前にスズキはGMとの合弁でカナダにCAMIオートモーティブを設立した。
これが1986年であり、インドでの生産は順調に拡大していたが、スズキにとって北米とインドの2正面作戦は資金面でも厳しいものだった。
鈴木修氏はGMと交渉し、CAMIオートモーティブで生産されるジオ向けモデルの全数を「出荷と同時に買い取ってもらえる約束」を取り付けた。北米工場の採算はこれで確保でき、スズキはインドでの生産拡大を進めることができた。鈴木修氏の交渉術の、最大の成果だった。
1991年にはハンガリー政府の要望に応えハンガリーにマジャール・スズキを設立し、この年の暮れにはVW(フォルクスワーゲン)と提携に向けた協議の開始が発表された。このときはVWとの資本提携は成立しなかったが、10年後の2011年、GMとの資本関係が解消された後にVWと提携した。しかしVWとの関係は上手くいかず、国際仲裁裁判所の仲介を得て資本提携を解消した。
鈴木修氏は、日本の自動車業界の中で海外メーカーとの資本提携交渉を最も数多く経験した社長だった。同時に、代表権のある社長・会長としての在任期間中、スズキの売上高は3000億円台から4兆円台へと10倍以上になった。同業他社が見向きもしなかったインドとハンガリーで成功を収め、独特のグローバル生産体制を整えた。これは修氏の大きな功績である。
GM関連では、元GMコリアだった韓国の大宇造船に軽自動車を提供し、GM大宇となって以降は、スイフトをベースとしたヒット商品、シボレー・クルーズを提供している。スズキとフィアットがともにGMグループだった時代には、スズキはSX4をフィアットにセディチのモデル名で供給していた。こうした外部との協力に関する交渉と決定も鈴木修氏が担当した。
鈴木修会長は記者会見で「肩書きを捨てても、現役でいる」と語り、経営にアドバイスをする心づもりがある姿勢を明らかにしている。