シトロエン物語 その2

アンドレ・シトロエンは1914年に第1次世界大戦が始まると、兵器工場に転進し砲弾作りを始める。ここで大成功を納めたアンドレは、終戦後に自動車生産を再開。1919年にタイプA/10HPというシトロエンの第一号車を完成させた。

自動車事業は大戦時の砲弾工場から本格スタートした

 アンドレ・シトロエンは1878年2月5日、パリに住むオランダ系のダイヤモンド商人の子どもとして生まれた。7歳のとき、リセ・コンドルセ(パリの私立学校)に入り、のちルイ・ル・グラン校へ移り学業優秀で賞を独り占めにしたというから〝神童〟の部類に入るのだろう。しかし、1898年、パリのエコール・ポリテクニク(国立理工科大学)に入学した。4年後の卒業時には200人中の159番だったと記されているのには首をかしげざるを得ない。

アンドレ顔.jpg▲アンドレ・シトロエン(1878〜1935年)

 後年、彼はエンジニアとしては活躍をしないで、むしろ企画者あるいは企業家として成長していく。つまり、そうした才能に長じていたのかもしれない。

 父の死後、母方の親類を訪ねてポーランドのロッツへ行く。そこで、初めて山型の二重歯車(ダブル・シェブロン)を発見、その性能にいたく感動して、パリに戻ったアンドレは、グルネル河岬に「シトロエン歯車会社」を設立。時代の需要に応じてたちまち成功、青年企業家として少しばかり〝知られた人物〟になる。27歳のときだった。

 時流にのるというのはこのことであろう。アンドレは、親類のユーグが経営するモール自動車会社に招かれるや、それまで経営不振にあえいでいたモール社を立て直し、1914年、第1次大戦の始まる直前には、年産数十台の零細企業を、年産1200台の中メーカーにのし上げることに成功する。そして、第1次大戦の勃発とともに兵器工場に転進、砲弾づくりに革新的な技術を採り入れて事業を拡大していく。

保弾工場.jpg▲流れ作業を取り入れて効率よく砲弾を生産 シトロエンは第1次世界大戦の際に砲弾工場(セーヌ河のジャベル工場)として使用された

 その革新的な技術とは、アメリカのフォードが自動車の生産に採り入れたベルト・コンベアによる大量生産方式であった。アンドレは砲弾づくりに、大量生産方法を導入、やがて第1次大戦後のシトロエンの基地となるジャベル河岬に大工場を設置して、日産5万5000発の砲弾製造を成し遂げる。

 それは、まさに〝生えてくる〟ような生産ぶりだった、といわれる。アンドレ・シトロエンは戦時の企業家として人並み以上の才腕をふるい、フランス最大の弾丸メーカーとなる。

 工場労働者の食糧問題、企業のための石炭の確保、さらに戦争遂行に必要な食糧切符の制度化など、統制経済にも彼は惜しみなく協力する。そして、戦争は、ドイツを屈伏させてフランスの勝利に終わる。

 アンドレ・シトロエンは再び、自動車生産の道に戻ってくる。1919年6月、アンドレはジャベル河岬の工場からタイプA/10HPというシトロエン車第1号を発進させるのだが、彼の活動は、その後の15年間だけで終わろうとは、神さまさえもお気づきにならなかった。

シトロエン10HP横位置.jpg▲アンドレが最初に開発したモデルがタイプA(10HP/1919年) 当時はシャシーとボディは別々に販売されて架装はユーザーが好みに合わせて実施する販売方式が一般的だった シトロエンのタイプはシャシーとボディが架装された状態で販売され「購入すればすぐに乗れる」という特徴を持っていた

 それにしても、あの車体の低い、優雅なトラクション・アヴァン・シトロエンの名車の数々は、誰の手になったのか

 シトロエンといえば、すぐに思い出すのは、フランス人にいまなおこよなく愛されている〝みにくいあひるの子〟2CVだが、あの軽快なフランス車〝シトロエン〟は誰が考えたのか?

2CV.jpg▲2CVは1939年にプロトタイプが制作された 第2次世界大戦(1939〜45年)下でも開発は続けられた 2CVは1948年のパリ・モーターショーでデビューして49年に販売がスタート 当初は375㏄のフラットツインを搭載 全長×全幅×全高3780×1480×1600㎜

 それらのシトロエンらしいシトロエンの名車のほとんどは、アンドレの手を煩わせはしなかったのだ。

 アンドレ・シトロエンは、1934年12月に破産宣告を受けて、会社をタイヤ・メーカーのピエール・ミシュランに譲ってしまったのであった。

 年代記作者の本に、アンドレの一項目として『ジャベル河岸からシトロエン河岸へ』があるが、それは、彼の栄光の道を歩いた15年間を記しているけれども、ジャベル河岸がシトロエン河岸と名を変えたときに、アンドレはシトロエン社を去っていったのだ。名誉の社名だけを残して......。

 第2次大戦後の2CVの大躍進、そしてその後のシトロエン社の発展は、ピエール・ブーランジェ、つまり3代目の社長の功績に帰さなければならない。

Pierre BOULANGER -.jpg▲3代目社長のピエール・ブーランジェ(1885〜1950年) ミシュランからシトロエンに移り辣腕を発揮

〝黒と黄色〟の探検ドライブ

 アンドレ・シトロエンは、ふたつの偉大な探検自動車旅行の記録を残している。アフリカを舞台にした『黒い探検旅行』、アジア(とくにシルクロードを含めた)とヨーロッパを結んだ『黄色い探検旅行』である。さらに南極探検を企図した『白い旅行』を加えると、3つの偉大な探検旅行の企画者・組織者だったことを忘れることはできない。

サハラ砂漠とアンドレ.jpg▲アルジェからトゥンブクツーを目指す冒険旅行がサハラ砂漠自動車縦断(砂漠のクロワジエール) 1922年12月から翌年3月にかけて実施された 黒い冒険旅行に比べれば小規模(走行距離約3250km)だった

『黒い探検旅行』は1924年10月28日、アルジェリアのコロム・ベシャールを出発するところから始まった。これは、2年前に成功したサハラ砂漠自動車縦断の直後、アンドレ・シトロエンの企画で進められたもので、隊長はシトロエン工場総支配人ジョルジュ・マリー・アールト、そしてサハラ砂漠縦断に加わったルイ・オードヴァン・デュブルイに率いられた一隊16人だった。

黒い冒険旅行のポスター.jpg▲黒い冒険旅行(クロワジエール・ノワール)の記録映画ポスター(1925年)

 探検隊は、8台のハーフ・トラックに分乗した。トラックはキグレスのゴム・キャタピラーを装着し、B2型4気筒エンジンを使用し、それぞれのクルマには役割を明示するシンボル・マークが付けられたという。指揮車(金色のスカラベ※1)、記録車(象印と城印)、撮影班車(太陽印と翼のある蛇印)、支援車(銀色の三日月)、医療・厨房車(鳩)、絵画班車(半人半馬神)などだった。(※1スカラベ:フンコロガシ。古代エジプトにおいては太陽を司る神の化身と考えられていた)

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