シトロエン物語 その3

アンドレ・シトロエンは1924年、黒い探検旅行(クロワジエールノワール)を始め、サハラ砂漠をハーフ・トラック(リアに無限軌道を装着)で越えた。マダガスカル島に到着したのは8カ月後の1925年だったが、クルマが移動の可能性を大きく広げることを実証した。1931年からは黄色い探検旅行を行い、シルクロードを走行。過酷な環境下を走り抜いた偉業は、クルマの発展に貢献しただけでなく、異文化の交流を拡大した。

黒い探検旅行と黄色い探検旅行。サハラ砂漠とシルクロードを走破

 黒い探検旅行の始まり(1924年10月28日)は、サハラ砂漠越えからだった。記録によれば17日間、明けても暮れても砂の道だったとある。次いでニジェール川から先は無限軌道のハーフ・トラックも形無しだったほどに、密林との戦い、回り道の連続だった。

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LA_REPLIQUE_DE L'AUTOCHENILLE_SCARABEE_DOR_POUR_LE_CENTENAIRE_CITROEN_35©MELANIE_BRONSART.jpg▲シトロエンの過酷な冒険ドライブを支えたハーフ・トラック 無限軌道を付けて走破性を高めている

 チャド南部のフォールアルシャンボー(現在のサール)付近の原生林はいよいよ深く、樹木も大きかった。コンゴに入ると、探検行の進度はがっくりと落ちた。まさに、〝暗黒の道〟を行く探検となり、黄色いクルマの列は、わずかに処女密林の木の間をもれる光を頼るよりほかはなかった。

 ウガンダとケニアでは、地面を瞬時にして水で覆いつくし、車軸を流すような豪雨のために行進はしばし立ち往生の破目となった。そしてモザンビークでは砂漠の山火事に襲われた......。

 砂漠、密林、サバンナ、沼地を通り、1925年6月20日、アフリカ南端のマダガスカル島、アンタナナリボに着いた。行程は約2万㎞におよび、実に8カ月の日数を要した。9万フィートの映画、300枚の絵、15冊のスケッチブック、8000枚を超える写真記録、そしてそれまで名を知られなかった800羽の鳥と1万5000匹の昆虫を収めた300箱の標本など、貴重な学術資料を持ち帰るという成果を上げたのだった。

DOS2017FIG-12038.jpg▲クロワジエール・ノワール(黒い探検旅行、1924年10月〜翌年9月)でマダガスカルに到着した探検隊一行 防暑服が現地の気候をイメージさせる

『黄色い探検旅行』は、1931年4月から翌年の2月にかけて行われ、「シトロエン中央アジア探検行」と呼ばれた。約40人の探検隊と14台のハーフ・トラックによって編成され、地中海と東シナ海を結ぶ試みであり、その昔、〝絹の道〟(シルクロード)として知られた道と、マルコ・ポーロが歩いた足跡をたどるのが目的だった。

黄色い冒険旅行.jpg▲黄色い冒険旅行(クロワジエール・ジョーヌ)の報告展示を告知するポスター(1931年)

 その道は険しく、縦にはヒマラヤの山々が、横にはゴビ砂漠が行く手をはばんでいた、と記録されている。しかも、当時は、アフガニスタンは革命の最中にあり、新彊省は道なき道であったし、中国は内戦に明け暮れていた。こうした状況から、探検隊は2隊に分かれ、ベイルートから旅立つ〝パミール隊〟と、北京から出発する〝中国隊〟が、新彊省で合流することになった。総行程1万2000kmに及んだ。

 この旅行は、種族間の闘争と苛酷な冬期の天候に悩まされ、このときの心労のために、アンドレ・シトロエンの無二の親友、ジョルジュ・マリー・アールトは壮挙を成功させた直後、香港の病院で、永遠に帰らぬ人となる。

PI2013FIG-00145.jpg▲クロワジエール・ジョーヌ(黄色い冒険旅行、1931年4月〜翌年2月)はレバノンと北京から2個小隊が出発してウルムチで合流するという冒険 一連のクロワジエールは自動車の可能性を高らかにアピールし「自動車の時代」が到来したことを印象づけた

 この探検行は、同行したル・フェーブルの記録『中央アジア自動車横断』(白水社刊)に詳しいし、またシトロエン社によって立派な報告書が出版されている。さらに映画記録も保存されている。

 シトロエン社のカラー記録『クロワジエール・ジョーヌ=黄色い行進』をちょっと拾い読みするだけでも、この探検行がいかに苛酷だったかがしのばれる。

「......ヒマラヤの心臓部ではハーフ・トラックがやっと通れる崖下の道を時速3マイルで走り抜けた。ときには 65フィートも滑落して動けなくなるクルマもあった。......ゴビ砂漠の南側では、寒さが極度に達してマイナス40度となり、エンジンは凍結を防ぐためにうなり続けた。食糧は少なくなり、盗難が出始めていた。......1932年1月19日から20日の真夜中には、オードアン・ドュブリエル隊のハーフ・トラックが黄河の支流の川に落ちた。氷が割れてクルマが沈み始め、ラジエターキャップまで浸水した。13時間にわたる苦闘の末に、やっと岸まで引き揚げることができた。ニン・シヤでの出来事だ......」など、エピソードに事欠かないのだった。

 アンドレ・シトロエンの探検行は、フランスばかりでなく全世界から高く評価され、それ相応に、シトロエン車の販路も世界へ伸びていった。

アンドレの業績

 アンドレ・シトロエンの業績については実にさまざまな批評がある。しかし、定評としては次の5つが挙げられるだろう。

 第1は、何といっても、フランスのフォードといわれるように、自動車の大量生産方式をフランスにもたらしたことだ。タイプA/10HPを開発して、はじめ1万1000フランで売り出したクルマを、1年足らずの間にコストダウンをして、7500フランに値下げ、自動車を市民たちの足にしている。

シトロエン10HP横位置.jpg▲シトロエン10HP

 それはやがて5HPという軽快な新小型車を発表し、女性でも運転できる状況をつくりあげている。それが、第2のアンドレの功績であったろう。

 第3は、1924年、全鋼鉄製のクルマ、B10を発表して、ヨーロッパでは初めての試みを打ち出した。これはたぶん、当時のヨーロッパとしては、10年も20年も先を見通しての先駆者の仕事であった。

 第4は、1932年、クライスラーの特許であるエンジンマウントの〝フローティング・パワー〟システムの採用である。振動が小さくなった特徴を強調したクルマは、〝白鳥〟を描いた広告で象徴される。

白鳥のシトロエンマーク.jpg▲白鳥をデザインした1932年当時のブランドロゴ

 1930年代初期のシトロエン・マスコットとして、高さ10センチメートルほどのクローム製の〝白鳥〟が、当時のマスコット・ブックに紹介されている。説明に、「これは優雅の象徴であり、と同時に、シトロエンが製作したクルマのエンジンが〝フリー・フローティング〟だという暗示にもなっている」とある。

 第5が、1934年に発表された〝トラクション・アヴァン〟(フロント・ドライブ)車である。

 しかし、〝これまでにない革新的な思想によるクルマ〟とされた7CVは、やがて改良されながら11CVとなり、フランス中にもてはやされるが、アンドレは、過剰投資による赤字経営によって破産宣告を受けてしまう。

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