交通評論家の岡並木さんのエッセイ。アンコール収録
電柱は渋滞の一因だ
イラスト●那須盛之
幅が4~5㍍程度の狭い道が、ボクたちの周りには無数にある。そういう道をボクらは歩いたり、クルマを走らせている。もしも、その道の端に障害物が何もなければ、すれ違いもたいして苦にはならない。東京・杉並のボクの家のそばの道も、そんな幅の道だ。そこで、しょっちゅうクルマが詰まってしまう。原因は、多くの場合、太いコンクリートの電柱だ。
電柱に邪魔されている空間は、電柱の太さ分だと思ったら大間違いだ。まず電柱は、道の端からだいたい50㌢離して立てられる。そして、電柱の根元の直径が50㌢。これだけでも、道路はすでに1㍍余り侵食されている。ところが、歩行者も、クルマも普通の状態では、電柱ぎりぎりを通るわけではない。
歩行者なら約45㌢は電柱から離れて歩くし、クルマならば1㍍は無意識のうちに離れて走る。電柱が侵食している空間というのは、その距離までを入れて考えなければならない。幅が狭い道での電柱の影響がいかに大きいかがわかるだろう。しかもその電柱が、道の両側に交互に20~30㍍おきに立っているのだから、両方向から、クルマが数台ずつつながってくれば、たちまち渋滞するし、歩行者は途方に暮れる。
電柱は美観の観点からよく問題にされる。しかし日本では、快適な歩行、安心な運転という観点からも、地中化を考えなければならない。
欧米の国々にも電柱がないわけではない。パリも、ロンドンも、郊外に出れば、電柱は普通にある。しかし、たとえばパリ郊外の街の狭い道では、H型鋼のような電柱を、道の端ぎりぎりに立てて、できるだけ道幅を侵食しないよう工夫している。いったい、欧米の都市ではいつごろから電線を地下に入れたのだろうか。
18世紀の末から19世紀の初めにかけて、ドン・フランシス・サルバという電気技師がスペインで活躍していた。彼は、1795(寛政7)年、この国の港町バルセロナの科学アカデミーの前で、世界で初めて被覆した電線を使って電信の実験をした人物だ。その彼が、電線の地中化の可能性について、こんなことをいっている。 「今後、無数の電線を空中に張り巡らすことは、不可能に思われる。どんなに高く張っても、どんなに上りにくい構造にしても、子供たちは電線にいたずらするに違いない。子供たちから電線を隔離するためにも、地中化が望ましいし、電線をチューブに入れて地中に埋設することは、実現性がある」。事実、彼はマドリッドと近郊の町との間で33㌔の電信線を地下に埋設した。
その狙いは現在と違っても、電線地中化の発想は、電線の歴史と同じように古い。
実験以外に、世界で最初にアーク灯をともしたのは、1875(明治8)年、パリの北駅だった。電力は電柱に張った裸電線で送られてきた。ゴムなどによる絶縁被覆は、まだ電信のための電線用だった。
しかし1877(明治10)年に、パリのルーブル宮の近くや、ロンドンのテムズ川の大堤防に、ロシアの技師ヤブロチコフが改良した新アーク灯を立てたときには、ゴムで被覆された配電線が、地下の溝に埋められた。
エジソンらが家庭でも使える実用的な白熱ランプを開発したのは、アーク灯にやや遅れて1878(明治11)年だった。しかもエジソンは電灯だけではなく、「照明用の電力を各建物に送る送電線は、地下に埋設しなければならない」と考え、鉄管を使ったエジソン・チューブを開発した。エジソン・チューブは、1882(明治15)年、ロンドンのホルボーンの道路に埋設された。この地下ケーブルによって、ニューゲート街からホルボーン・サーカスに至る道の街路灯と、沿道の建物に電力が送られた。
パリでは、電信の時代も、ゴムの被覆線ができてからは、地下に入れなければならなかった。電力線も、最初の北駅のアーク灯を除いては、まだ法律はなかったが、市が入札のときの発注条件として地中化を要求したという。 パリ市内にいっさいの架線を認めない法律ができたのは、1898(明治31)年に市電の工事が始まるときである。そのために、パリの市電は、2本のレールの中央に掘った溝の中に送電線を敷設して、そこから電力を取る第三軌条方式になった。最初の市電がベルリンで誕生したのは1881(明治14)年であり、京都ではパリより早い1895(明治28)年には開業していた。パリの市電が、こんなに遅れた理由について、フランス工業技術博物館のロベールさんは、こういっている。「架線方式は景観を壊すし、第三軌条方式はコストが高いという2つの難題の板ばさみになっていたからです」
このように、先進諸都市では電信の時代から、絶えず架線か地中化かの論議があった。日本では、明治の初めに電線が入ってきたとき、はたしてそのような論議があったのだろうか。
名コラムニスト、岡並木さんのアンコール・エッセイをお届けしました。(1985年9月10日号原文掲載)