R-Rの名声を確定した「銀色の幽霊」。音もなく静かに走る
ロールスは19歳のとき、3.5hpのプジョーをフランスから買い入れた。当時は、イギリス中で20人とはいなかったクルマのオーナードライバーの一人であり、ケンブリッジ大学で工学を専攻した知識と、若々しい冒険心でプジョーを乗りつぶした。やがて、2台目のクルマ、4気筒12hpのパナール車を買い、名レーサーぶりを発揮して社交界の花形になっていく。
自分の名前をつけた会社をロンドンのコンデュイット・ストリートに1902年に設立する。ヨーロッパ車の輸入業者として商才を発揮するが、ロールスはイギリス製のクルマがほしかったのである。
▲写真のクルマはロイスの試作した3台の中の1台 1904年ごろにマンチェスターで撮影された
一方のF・ヘンリー・ロイスも1902年にフランスからデコーヴィルを1台買いつけている。ヘンリー(ロイスはそう呼ばれていた)は、すでに40代の企業家で少しは名を知られていた。というのは1894年にダイナモと電気モーターを製造する会社を興していた彼は、当時数少ない電気クレーンを製作して利益を上げていたからだ。ボーア戦争が起こるまでの5年間は順風の事業だったが、やがてアメリカとドイツから新型の電気クレーンがどっと輸入されはじめて、ヘンリーの会社も方向を変えて、新規事業を開発する必要に迫られていた。
未来の乗り物、自動車に注目したヘンリーはデコーヴィルを購入、徹底的に解体・研究をしてロイスの試作車を1903年に完成したのである。この試作第1号車こそ、ロイスがロールスと席をともにしたクルマだったのだ。
1904年に出会った二人は、ロイスの試作第1号車の上でお互いに理解し合い、クルマの製作はロイスが受け持ち、その独占販売をロールスが担当することを約束する。その年のクリスマス直前に二人は契約を結び、車名をROLLSーROYCEとハイフンでつなぐことを決める。ここで、ハイフン役をつとめた、名経営者クロード・ジョンソンが登場するのだが、詳しい話は『ロールスーロイスのハイフン』という本にゆずろう。
▲クロード・ジョンソン(1864〜1926年) 「RとRをつなぐハイフン」と呼ばれロールス・ロイス社の経営を支えた
ロールスとロイスは同じ信念で結ばれたのである。後年になって、R―Rをめぐる名文句がいくつも生まれるが、それらはいずれも二人の合言葉だったのだ。
「世界における最良のクルマ」──やさしくてかつ傑作だ。
「オリティは信仰だ」──ドイツの本にそう書いてある。
そして、かの有名なカー・バッジも生まれる。
▲ロールス・ロイスのボンネットを優雅に飾る「スプリット・オブ・エクスタシー(恍惚の妖精)」
「このバッジは、ロールスの名車「銀色の幽霊」につけられたデザインである。ラジエターのエンブレムは1930年までは赤だったが、ある時期が来て黒に変わり、以来黒で売られている」という。1932年、ヘンリー・ロイスが病気で死亡したために黒色にして喪に服したという説と、それは間違いで、商売上の効果を考えただけのことだという話が残されている。
▲25/30hpセダン・デビル(コーチワークはバーカー社)
C・S・ロールスとF・H・ロイスの提携後、R-R製のクルマは、2気筒10hp、3気筒15hp、4気筒20hp、6気筒30hpとたてつづけに製造されていくが、1907年に作られた6気筒7046ccは、車体が銀色に塗られ、ロンドン=グラスゴー間の長距離ノンストップレースに挑戦、総距離2万3000kmを完走してR-R車の名を高めた。音もなく静かに走り通したという独自の性能から、そのクルマは「銀色の幽霊」と愛称されることになる。
▲1907年当時のオリジナルコンディションのシルバーゴースト リアシートの運転席側に英国のチャールズ皇太子が座っている シルバーゴーストは40/50hpのシャシーを使ってバーカー社がボディワークを手がけたモデル
シルバー・ゴーストの説明には、「6気筒ロールス・ロイス車、このクルマはさる金曜日にRAC主催の公式ロードトライアルにおいて7214マイルをノンストップで完走、またロンドン=グラスゴー間で一日400マイル走行もなしとげた」とある。
シルバーゴーストは、この日から19年間にわたって約8000台が製造され、それらのクルマはほとんどが「手づくり」の精密さで仕上げられたといわれている。
かくて、1914年第1次世界大戦が起こると、その無類の耐久性がイギリス政府に認められ、シルバーゴーストは装甲自動車に改造されてヨーロッパや中東の戦場へ送られていく。
アラビアのロレンスといわれるT・E・ロレンスも、シルバー・ゴーストを駆って熱砂の中を暴れることができたのである。
▲20/25hpドロップヘッドクーペ(コーチワークはパークワード社)