天才エンジニアにチャンス到来。小型車の開発に取り組む
イシゴニスには、むろん彼自身の道があった。1928年にはじめて職を得て以来、自動車設計の道を歩みはじめた。彼は、36年にはハンバー・ヒルマンと共同作業をはじめ、そのころには、オースチン・セブン「アルスター」を駆って週末のスプリント・レースに参加したりしている。モーリス社のレオナード・ロードを知り、モーリス社に入ったのは30歳のときだ。1936年にはモーリス10の開発に携わるが、彼の思想は花を開かない。やっと戦後の1948年になってモーリス・マイナーを設計、発表する。
▲1961年からワークス体制でミニはラリー活動を開始 63年モンテカルロ・ラリーは2位でフィニッシュ 64年/65年(写真)/67年と3度の総合優勝を獲得 66年は1〜3位をミニが独占したが競技終了後に「ヘッドランプが規則に違反している」と「疑問の余地がある決定」(BMW)が下されて連勝が途切れた
ちょうど、そのころ、ミニとルーツともいうべきドラゴンフライ(注1)の製作が、密やかにはじめられていたのである。
注1:ダンカン・インダストリーズ社(英国)が量産を目指したコンパクトモデル。全長約3320mm、500ccの空冷エンジンを使ったFFモデル。プロトタイプまで作ったが量産はならなかった
1952年、イシゴニスはアルヴィス社へ移籍する。彼の創作が一時休止した時期である。
1955年の秋、レオナードとイシゴニスは再会する。友情がよみがえって、モーリス社の経営者と、不世出の天才エンジニアがしっかりと手を握る。
▲1964年のモンテカルロ・ラリーはミニ・クーパーSで出場したP・ホプカーク選手組が優勝 写真はラリーの開催地となるモナコ公国のレーニエ大公が臨席した表彰式の様子
そうしたときに、スエズに動乱が起きたのである。1958年9月だった。
もともとイギリスは小型車生産では、世界的に知られていた。第2次大戦後の復興期に当たってようやく大型車の時期到来の気運がみなぎってきた世界のモータリゼーションの中にあっても、イギリスではモーリス・マイナーの成功は光っていた。イシゴニスの小型車志向は揺るぎないものであった。
1956年7月、エジプトのナセル大統領は突如としてスエズ運河を国有にするというエジプト宣言を発表、続いて石油の国有化をにおわした。スエズ運河を通る船のほとんどは石油運送船で、中東で産出する石油を日本をはじめヨーロッパやアメリカへ運ぶ輸送船である。スエズ運河が国有化されると、通過料が新たに発生。世界のガソリンの値段にはね返ってくる。
そうした時期にスエズに動乱が発生して、エジプトのナセル大統領は石油の油送管を切りこわした。第一次のオイル・ショックがヨーロッパを見舞ったのである。1956年の終わりから翌年の5月まで世界中のガソリンが不足してしまった。
▲1967年のモンテカルロ・ラリーを制したR・アルトーネン選手
業界はたちまち混乱して、各国ともに軽量車の生産に転進し、ドイツは早速「バブル・カー」と呼ばれる軽便車を市場へ送りこんできた。バブル・カーは、モーター・サイクルのエンジンを利用したシャシーに、プラスチックの屋根を卵形に載せた、3輪または4輪の経済車だったから、たちまち、イギリスの道路にもバブル・カーが氾濫しはじめたのである。
こうした事態は、長い年月をかけて小型車と取り組んできたレオナードとイシゴニスにとって我慢のならないことだった。二人は、声を大きくして叫んだ。「くたばれ、バブル・カー。われわれは新しいミニチュア・カーをデザインして、ドイツ製の軽便車をイギリスの道路から駆逐しなければならないのだ」。
▲ミニはラリー以外のモータースポーツでも大いに活躍 19歳だったN・ラウダ選手はミニで初のヒルクライムに出場して2位/2週間後には初優勝を飾った G・ヒル選手/J・スチュワート選手/J・サーティス選手/J・リント選手/J・ハント選手らもミニでレースに出場した
イシゴニスを中心とした集中的なプロジェクトがはじまり、1957年の春から、その年の10月にかけて2台のプロトタイプが仕上げられた。それはオレンジ色に塗られていたから、「オレンジ・ボックス」と名づけられたミニ・カーだった。58年7月、1台のオレンジ・ボックスで、ロングブリッジの路上テストが試みられた。
イシゴニスは、あとになって、友人と交わした会話として、「血のにじむもの」について語っている。「血のにじむもの」、それこそミニだったのである。