チェコ出身の技術者は、ドイツの国民車構想に夢と希望を託した
▲フェルディナント・ポルシェ(左)とフェリー・ポルシェ(右)
ポルシェを語るとき、クルマの話であろうと人物たちの話題であろうと、どうしてもナチス・ドイツを避けて通るわけにはいかない。名車ポルシェの原型はフォルクスワーゲンであり、フォルクスワーゲンはヒトラー(1889〜1945年)に深くかかわっていたからだ。
▲中央がハンス・スタック選手/左がフェルディナント・ポルシェ マシンは1934年のアウト・ウニオン・タイプA
話は90年前の時代にさかのぼる。
1933年は、ヒトラー勃興の年だった。当時、ドイツの政党第一党にのしあがったNSDAP=国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)は、ミュンヘンで起きた国会議事堂焼き打ち事件(後にヒトラーの陰謀とわかる)を共産党の仕業ときめつけ、そのどさくさ騒ぎを利用して政権を奪いとり、指導者ヒトラーはまたたくまにドイツ全土をナチズムで覆ってしまう。
この瞬間から、オーストリア生まれのドイツ人、フェルディナント・ポルシェ(1875〜1951年)の運命は大きく変わった。 フォルクスワーゲンの生みの親、フェルディナント博士はすでに58歳、スポーツカーの名車ポルシェの推進者で、彼の息子フェリーは25歳だった。
まったく、それは映画を見るような変わりようだった。
ライザ・ミネリが主演した映画『キャバレー』(1972年・アカデミー賞受賞作。ボブ・フォッシー監督)には、どんな手口でナチズムがドイツの若い世代に食いこんでいったか、それが見事に描かれていた。
アメリカの流れ者、キャバレーの歌い手(ライザ)が、ベルリンのとある地下室でデキシーを歌っていたのは19300年代のはじめごろだ。ご時世が右に傾くにつれて、歌の中身が頽廃から現実へ、人情から金次第の世界へ変わっていく。ある日、女は恋人と一緒に村の有力者のビール・パーティに招かれる。彼らが美しいドイツの片田舎の集まりで見た光景は、ドイツの若者たちが立ち上がってナチスの歌を合唱するシーンだった。ナチスはもう、田舎にまで浸透していると知り、彼女は時代の変化にがく然とする。
そんな時代に、フェルディナント・ポルシェはヒトラーに口説きおとされて握手をしてしまったのだ。 「すべてのドイツ国民が、クルマを持とう!」これがヒトラーの「国民車」のスローガンだった。
▲1933年のプロトタイプモデル「タイプ32」 ポルシェがNSU(後にアウト・ウニオンに吸収されてアウディとなる)のために開発したモデル 1.5リッターの空冷フラット4エンジンの搭載を想定していた 撮影場所はシュツットガルトのポルシェ・エンジニアリングオフィスの前
フェルディナントは根っからの技術屋であったうえに、若いころから描いていた小型車が実現されるかもしれないと判断したのであろう、スポンサーがヒトラーであろうとなかろうと、気にとめなかったのかもしれない。
それに彼は生粋のドイツ人ではない。現在はチェコとなっているボヘミアの生まれである。のんびりした封建王制の最後の時代で、マリア・テレジアや、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ皇帝などが統治していたオーストリア・ハンガリー二重帝国の時代に育った男で、ボヘミアンだった。まさかヒトラーがとんでもない悪魔だとは、そのころのフェルディナントは気がつかなかった。
ヒトラーがポルシェ博士にフォルクスワーゲン(Volkswagen=国民車)として示した条件は、5人乗り(大人2、子ども3)、時速100キロ、燃費は1リッター当たり15キロ、空冷エンジン、価格は1000マルク以下というものであった。この 1000マルクという値段は、当時の勤労大衆が毎週5マルクずつ積み立ててざっと4年、990マルクまで預金できたらクルマのオーナーになれるという仕組みからはじき出された数字だといわれる。しかし、それらの条件は技術的にも、商業的にも厳しいものだったから、当時のドイツ自動車工業会では引き受け手がなかった。
ヒトラーは、経営を国家が保証する、工場は新しい土地に建設、金はいくらかかっても構わん、と胸をぽんとたたいた。
結局、ポルシェ博士は押し切られてしまった。シュツットガルト・クローネン14番街、デザイン事務所フェルディナント・ポルシェ株式会社が引き受ける。
▲1936〜37年当時のポルシェ・タイプ60(V3) 後のビートルに発展
伝記作者は、「その後」を次のように記している。1台のプロトタイプの写真の下に付けられた解説の一節である。
「これはまったく珍しい枚の写真で、ポルシェの作ったタイプ32だ。NSUオートバイ会社の注文に応じて設計・完成した3台のうちの1台である。外見とレイアウトは、次代のVWビートルに強烈な影響を与えたと思える。ポルシェはツェンダップ・タイプ12に見せた星型エンジンの考え方を捨てて、空冷・4気筒(ボクサー型)エンジンを後部に載せている。オーバー・ヘッド・バルブ、30馬力で、テスト走行で最高時速110キロを出した。このフォルクスワーゲン試作車は、ツェンダップと同じ工場で作られた。1934年1月27日になってポルシェ博士は、ついにタイプ60(VWタイプ1=ビートルの原型)の設計図を書きあげる」。
そのころ、ヒトラーは国民総動員体制で、アウトバーン(高速自動車道路)の建設を命じていた。あの特徴あるチョビひげをふるわせ、かん高い声で叫んだ。「国民のためにいまクルマを作りつつある! 国民みんながクルマを持とう! そして、いい道路を造ろう!」と。
1930年代後半の、ポルシェをめぐる社会の動きを、『現代史の鏡にみるポルシェの100年』という写真・文集で読んでみよう。
「1936年、ベルリン・オリンピックひらく。37年10月26日、ローゼマイヤー操縦のアウト・ウニオンは5キロコースで時速404.6キロの世界記録を達成する。39年、ドイツ軍はポーランドに侵攻。第二次大戦ついに勃発!」。
伝記作者はもう1枚の写真を見せてくれる。疾走するナンバー4のレーシング・カーと、上着のチョッキから2個の時計を取り出して計測するポルシェ博士の姿である。
「1934年はフェルディナント・ポルシェにとって記念すべき年になる。アウト・ウニオンのために製作した16気筒ミッドエンジンのレーシング・カー(タイプA)はレーサーのハンス・スタックに「これぞ世紀の名車」と評される。スタックは、このクルマを駆って4月のドイツ・グランプリに出場、世界(クラス別)新記録を樹立、そしてスイスGP、チェコスロバキアで優勝する」。
ポルシェ父子物語
第1回「チェコ出身の技術者は、ドイツの国民車構想に夢と希望を託した」
第2回「1934年、フォルクスワーゲン計画発表、国民車開発がスタート」
第3回「ポルシェ博士は戦犯として収容所生活を送る。息子フェリーの愛情」
第4回「第2次大戦後、ついに博士の悲願だった国民車の生産がスタートする」