ポルシェ父子物語 第2回「1934年、フォルクスワーゲン計画発表、国民車開発がスタート」

1934年、フォルクスワーゲン計画発表、国民車開発がスタート

 いろいろな事件や出来事が、夏雲のようにわきあがる。そして1936年10月、ポルシェ博士は3台のプロトタイプを製作、ドイツ国家自動車工業会と結んだVW計画をさらに一歩進める。これはVWシリーズ3、ポルシェ・設計タイプ60と呼ばれた。

 もう一息でフォルクスワーゲン、国民のためのクルマが完成する!

 そして、ヒトラーによってこの年にベルリン・オリンピックが開催された。美の祭典、民族の祭典だ。

 オリンピックから3年後には、ドイツは戦争を引き起こしたのだ。VW60から、たちまち軍用62型が生み出され、次いで812型が全戦線に送られていく。VWは戦争の道具に変身してしまった。アウトバーンは軍用道路だったのだ。

 息子のフェリーが生まれる1909年ごろまでのフェルディナントの若き日々を、クルマ年表から拾ってみよう。簡潔な記事の中に、一青年技師が胸に描いた青雲の志がストレートに伝わってくる。

S09_0050_a4.jpg▲1934年、フォルクスワーゲン計画発表、国民車開発がスタート

 1875年、ズデーテン地方(現在のチェコ)のマッフェルスドルフに生まれる。父親アントンは飾り職人だった。
 1890年、16歳。父親の反対を押し切って家中に電灯設備を自作。当時はまだ家庭の電灯は珍しかった。
 20歳。家業から解放されてウィーンの工機学校へ入学。

 24歳。電気メーカーとして知られるベラ・エッガー社のテスト部門の技師社員として就職。
 25歳。馬車製造業ヤコブ・ローナーに引き抜かれて転職、ハプスブルク家の宮廷馬車作り専任技師となる。
 28歳。1900年代になる。エクセルベルク・レースの1000kgクラスで、ハイブリッド複合エンジン車によるレースに優勝。

 1902年11月8日、領主フランツ・フェルディナント大公から勲章を受ける。  33歳。複合エンジンによる85馬力のレーシング・カーを製作。
 1909年、35歳。オーストリア皇帝およびブルガリア王妃からの特別注文で、4段ギア32馬力のツーリング・カー製作。この年に長男のフェリーが誕生する。

 フェルディナント・ポルシェ博士は、1912年に空冷式の航空機用エンジンを設計・開発しているが、このエンジンこそ、のちのフォルクスワーゲンのエンジンの原型だ。38歳の男盛りだった。

 そのころの彼のポートレートがある。碧眼、高くとがった鼻、ちょっと眉をしかめて、いささか苦み走った表情、それは、その時代の代表的な男の顔だったに違いない。何事も成就させなければならないという意志の強さが、キリッと結んだ唇に見てとれる。それに特徴のある口ひげはコールマンひげと呼ばれたものだ。博士も、流行の口ひげを誇らしげにひねっていた。

 ヒトラーに見込まれることさえなかったならば、ポルシェ博士は世界中でもっとも幸せなエンジニアとしてすごすことができたのだ。

P06_0698_a4.jpg▲国民車構想の開発過程で作られたプロトタイプ(V2モデル/1935年) 運転席に座っているのはフェリー・ポルシェ ドイツ国家自動車工業会と契約を結んでから1年後にポルシェ博士は2台のプロトタイプを完成させている

 1934年1月17日、ヒトラーとともに、フォルクスワーゲン計画を発表したポルシェ博士は、その年の7月22日、ドイツ国家自動車工業会と契約、VWプロジェクトの一員となることに署名した。

 翌1935年6月になると、ダイムラー・ベンツ社はポルシェ博士の指導でVWの生産準備態勢にはいり、翌々年の 37年に30台のテスト車を完成する。タイプ30といわれる。走行総距離250万kmにおよぶ徹底テストが、ヒトラーの命令で行われた。38年、フォルクスワーゲン量産のため、新しい工業都市ウォルフスブルクが誕生する。5月26日、建設の礎石が置かれた、と記録にある。

 ウォルフスブルク。北部ドイツの中央にあった、それまでは小さな無名の村が、一大自動車工業用地として選ばれたのは、ライン、ヴェーザー、エルベの三大河を結ぶ中央ドイツ運河に沿っていたからだ。ドイツ空軍による空中視察の結果ともいわれ、ここに、ヒトラーが呼号した「年間100万台のフォルクスワーゲンを生産する大工場」が作られる。従業員3万人とその家族が生活し、ヒトラーが宣言・命令した「KdF=Kraft durch Freude」号(喜びによる力号)の生産が開始されるはずだった。

水陸両用a4.jpg▲ポルシェ・タイプ166(シュヴィム・ワーゲン/1942年) ポルシェ初の4WDモデルで水陸両用の走行が可能 当時としては最高の走破性能を誇った

 しかし、ポルシェ博士はここではじめて、自分がヒトラーの罠にかかったことを知る。ヒトラーは突然「KdF」号の生産計画をとめ、軍用4輪駆動車の大量生産を命じたのだ。シュヴィム・ワーゲン(水陸両用車・タイプ166)や、キューベル・ワーゲン(通称ジープ・タイプ82)が、ベルトコンベアで生み出される。

 この方式は、ポルシェ博士が息子のフェリーを連れて数年前にアメリカを訪れた折に、ヘンリー・フォードから学んだ量産方式だったのである。またたく間に、何千、何万台のジープ・タイプ、水陸両用車、トラクターが生産されていく。しかも、夜を日に継ぐ突貫工事で建設が進められたアウトバーンは、ドイツ国内に網の目のように張りめぐらされた。

 その次の瞬間に、ヒトラーは悪魔の正体を露にしたのだ。怒濤のような勢いでドイツ軍がヨーロッパ各地に侵入する。フェルディナント・ポルシェの故郷、ボヘミアのズデーテン地方にドイツ軍が進駐したのは1938年9月のこと、第2次大戦の勃発に続く。運命の皮肉というべきだろう、ポルシェ博士は、自らが設計した機甲車により、故郷の地が踏みにじられるのを目のあたりに見たのだ。

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ポルシェ父子物語
第1回「チェコ出身の技術者は、ドイツの国民車構想に夢と希望を託した」
第2回「1934年、フォルクスワーゲン計画発表、国民車開発がスタート」
第3回「ポルシェ博士は戦犯として収容所生活を送る。息子フェリーの愛情」
第4回「第2次大戦後、ついに博士の悲願だった国民車の生産がスタートする」

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