ルイ・ルノー物語 第2回「『マルヌのタクシー』(タイプAG)が第1次大戦でフランスのピンチを救った」

「マルヌのタクシー」(タイプAG)が第1次大戦でフランスのピンチを救った

タイプAGタクシーメインビジュアル.jpg▲ルノー・タイプAG(1905年)は簡素な構造で高い信頼性を追求したモデル パリのタクシーとして知られ1906年にはパリ市内で1000台のタイプAGタクシーが使われていた

 フランスには、「コラボラシオン(Collaboration)」という言葉がある。第2次世界大戦のとき、緒戦でフランスはドイツ軍、とくにナチスの軍隊によって占領されたが、そのとき対独協力をしたことをコラボラシオンといい、その協力者をコラボーと呼んで、フランス国民は心の底から忌み嫌った。コラボーは、フランス解放後は、死または追放をもって報復されたが、1980年代を迎えようという時代になってもその追及は止んでいないともいう。

 そうした憎しみを水に流すことができない感情を持ちつづけたフランス人であるだけに、対独協力に応じたルイ・ルノーを許さないという運命があったわけである。

 フランス人のドイツ嫌い、とくにナチ嫌いはボクたちの想像をはるかに超えるものだけに、レジスタンス(抵抗運動)が勲章だとするならばコラボーは死を意味するのだと思わないわけにはいかない。

 そうでなければ、ルイ・ルノーの死はどうにも説明がつかないのである。

    *   *

 ルイ・ルノーにとって、運命を分けたともいうべき日がある。1938年、ルイは招かれてベルリン・モーターショーを見物した。その折に、フェルディナント・ポルシェ博士が製作したといわれる小型車「KdF号」(カー・デー・エフ=喜びによる力号)を紹介された。新車は4気筒・空冷エンジン、量産による低廉な価格、後部にエンジンを載せ、オールスチール製の車体をマウントしていた。この試作車に、彼はすっかり魅せられてしまう。しかも、そのとき、得意満面で説明するヒトラーから「大公」の称号を受け、でき上がったばかりの新車の完全なファイルまで土産にもらったのである。帰国したルイは、さっそく、設計者を集めて「キミたちもドイツ車のようなクルマを作りたまえ」と訓示した。という。

Taxi de la Marne - Renault Type AG1.jpg▲ルノー・タイプAG(1905年) 第1次世界大戦中にパリを目指すドイツ軍がマルヌ川の渡河を図ろうとした際にフランスはタイプAGタクシーを使って兵士を前線に輸送 この動員が奏功したフランス軍はドイツ軍の侵攻を許さなかった この戦いをきっかけに"マルヌのタクシー"と呼ばれることになった

 ルイ・ルノーは根っからのフランス人であり、生粋のパリっ子だったのだが、ヒトラーと親交を結んだのは、悪魔と手を握ったようなものだった。

 ルイの胸には、こんな思いが去来したのかもしれない。 「第1次大戦で、私はフランス軍に協力して戦車や大砲や弾丸を作ったものだ。しかし、熱心のあまり、戦争が終わったとき、私は競争相手から水をあけられていたことにあとで気づいた。だから、第2次大戦中も『1918年のときはしてやられた、こんなことは二度とあってはならぬ』と考えた。『戦後、フランスは多分貧乏になるに違いない。それだけに安い値段で買える、燃費も少なくて済む小型車を考えておくべきだ』と思っていたのだった」と。

 ルイは対独協力ということとは別に、自分の作った企業を愛していた。そして『フランスの将来のために』戦中には、すでに大衆のための4CV車構想を持っていたのである。しかし、それが実現される前に悲運に見舞われてしまった。

 ルイ・ルノーの死因は、表向きには獄中生活による尿毒症の結果とされた。しかし、こうも書かれているのだ。「彼の死は病気によるものではない、牢番のひとりによって拷問されたためである」と。

A02.jpg▲2人の兄とルノー兄弟会社を興して自動車生産を開始した 兄たちはビジネス面で才覚を発揮 ルイはクルマ作りをリードした

 このことは、フレズネの獄舎に夫ルイを訪ね、何度も減刑を願った妻クリスチャンが、関係者や尼僧たちから聞き出した証言をもとに、ある年代記作者が指摘しているが、その最後をこう結んでいる。

「虐待があったあと、彼女の願いが容れられて、ルイは1944年10月17日にサン・ジャン・デゥ・デュー病院(神の家)へ移送されることになったが、そのときはすでに昏睡状態であった。そのまま数日後に死の24日を迎えた」

 夫人は、その後、埋葬されたルイの遺体を堀り起こしてレントゲン撮影をしてほしいと訴えたということである。しかしそれは、戦争の激情が冷める10年後までは許されなかった。そのとき、検死にたずさわった一人の男の言葉として、「頭は体から離れていた」また、「ルイの死因は脊椎の骨折によるもの」と記録されている。

 ルイ・ルノーの霊は、いまは彼が愛したエルケビイユに近い、小さな教会の墓に眠っている。埋葬のとき、ひとりの友人が墓標に向けて哀悼の言葉を捧げた。

「キミはフランスにおける最大の企業の長だった。キミは全世界にキミの祖国の名をひろめた。ルイ・ルノー、キミは実によく働いた──キミの頭、キミの手を使い、そして若き日には額に汗して働いた、かくしてキミの企業は大きく伸びた。キミは偉大な発明家と組織者としての才能を持っていた」

 ルイ・ルノー、21歳の青春時代はこう紹介できる。

「彼は、いつも空想家のような夢みる目つきをしていた。兵隊から戻ったルイは、兵隊時代に買ったクルマ、ド・ディオンの研究に取り組んで、夜昼とない傾倒の揚げ句、旧型のトランスミッションに替えて、ついにダイレクト・ドライブという革命的なギア・ボックスの製作に成功したのだった」

Small-10885-Renault4CV.jpg▲1947年ルノー4CV 車両の構想は終戦前にできていたRRモデル 日本では日野ルノーとして1953年からノックダウン生産が行われた

 1898年11月、晩秋の夕方、ルイは自作の4輪車を駆ってセーヌ河岸のスズカケの並木道を突っ走った。運転席に座ったルイの服装は、当時流行のカースーツで、これも流行の山高帽をかぶっていた。その得意さを思うべし、というところだろう。トップスピードは約48km/hだった。ダイレクトシャフトによるドライブ成功の瞬間である。(続く)

まみやたつお/東京外国語大学卒業。1942年、朝日新聞社入社。1980年代に本誌で「栄光へのチャレンジャーたち」を連載。著書は『名車たちの青春群像』(ダイヤモンド社)など多数

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