万国博覧会と「新しい移動手段」の関係

連載,コラム,岡並木

日本最初のエレベーター物語

日本初のエレベーター.png▲イラスト:那須盛之 東京浅草のシンボルだった凌雲閣(十二階)

 これまで万国博覧会の歴史は、一八五一年のロンドン万博以来、次の時代の新しい交通手段の発表の機会でもあった。

 電気機関車は、一八七九年、ベルリンで開かれた内国博覧会に登場したし、動く歩道は一八九三年にアメリカ、シカゴの万博で披露された。

 エレベーターはもっと古くて、一八五三年のニューヨーク博覧会で発表されている。まだ囲いのない床板だけを上下させる代物だった。発明者のE・オーチスは荷物用のリフトに落下防止の安全装置をつけて、人間の垂直移動に生かそうとしたのである。

 オーチスは発表の日、荷物を数個持って乗り込み、引き上げさせて見せた。そしてその最中、安全性を証明するために、操作係にリフトのロープを斧で切断させたという。しかし驚く観衆の前で、エレベーターは確実に止まった。落下防止装置はちゃんと作動した。

 オーチスは一八六七年のパリ万博には、本格的な箱型のエレベーターを出品した。観客はそれに乗ってパビリオンの屋上に出て、パリの眺めを楽しんだという。

 しかし、このころのエレベーターの動力は、まだ蒸気機関だった。電動機で動くエレベーターが現れたのは一八八九年。その翌年に開業した『十二階』のエレベーターは、世界の最先端を行っていたわけだ。

 ここでいう『十二階』は、東京・浅草にあった名所、凌雲閣である。『十二階』は関東大震災(一九二三年)で焼け落ちたが、それまでは日本一の高さ(約五十二㍍)を誇っていた。『十二階』のエレベーターが、日本で最初に営業されたのは一八九〇年、十二月十三日。 『十二階』のエレベーターは、日本で最初のエレベーターだったが、実は同時に、照明以外に電力が使われた日本で最初の例でもあった。

 高く上がることは、昔からの人類の夢だったのだろう。博覧会で実際に動かして見せる移動手段は、水平の移動よりまず上に昇るものから登場してきたといえそうだ。  話は万博に戻るが、エレベーターに続いて、一八七六年のフィラデルフィア万博では、初の大観覧車が出た。直径七十六㍍。その大輪に長さ六㍍、四十人乗りのゴンドラがたくさん取り付けられた。一八七八年のパリ万博では、繫留気球が客を乗せて人気を呼んだ。

 高く高くを目指して上りつめていったのが、一八八九年のパリ万博のエッフェル塔だった。『図説万国博覧会』によると、エッフェル塔の三百㍍という超高層工事には、思わぬ障害が出てきた。高いところで働く作業員、日本でいえば『鳶職』たちが、人類未到の寒い空中での仕事に対して、寒冷地手当などを含めた待遇改善を求めてストライキにまで発展したという。

 エッフェル塔は一八八九年三月三十日に完成したが、斜行部分を含むエレベーターの工事は遅れ、五月六日の万博開場から九日目にやっと動き出した。  ところで、物や人を上下に運ぶ機械を考えたのは、オーチスが最初ではない。人力や家畜の力を使う原始的な装置はかなり昔からあった。十八世紀、フランスのルイ十五世は、女性の部屋に通うために、ベルサイユ宮殿の自分の部屋から『空飛ぶイス』と呼ぶリフトを作ったという。ただ、動力が何であったか、ボクはまだ調べていない。

 余談だが、このころのベルサイユ宮殿には『イギリス式のイス』もあった。これはリフトではなくて、世界で初めてこの宮殿に作られた水洗トイレのことである。

 この後もさまざまなリフトが現れるが、技術水準は、オーチスのエレベーターには遠く及ばなかった。

 エレベーターの発達の歴史の過程で課題になってきたのは、建物が高くなるにつれて、速度をどうやって上げるかということだった。

 オーチスは最初のエレベーターの発表から三年目に、ニューヨークの五階建てのビルにエレベーターを一台売った。このときの速度は、毎分十二㍍だった。

 現在、横浜ランドマークタワー(高さ二百九十六㍍)のエレベーターは、分速七百五十㍍。六十九階、二百七十三㍍にある展望台までを四十秒で昇る。オーチスが最初にニューヨークで売ったエレベーターなら、二十三分かかる計算になる。

 名コラムニスト、岡並木さんのアンコール・エッセイです(1996年1月26日号原文掲載)

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