ラッピングバスが普及した背景と、世界の潮流。
公共交通と広告の親和性、その時代的背景
▲イラスト:那須盛之
二〇〇〇年四月十日、東京都営バス千八百台の十三%、二百四十台が〝ラッピングバス〟になった。〝美しく包装されたバス〟という意味だが、簡単にいえば全身広告バスだ。従来、都内のバスの車外広告は、枠にはめ込むこぢんまりとしたサイズで、面積は二・七平方㍍以内と決められていた。乗り物と広告の歴史を振り返ってみよう。
全身を広告の絵で覆った路面電車やバスを、ボクが初めて見たのは、一九七〇年代のはじめ。ドイツのハンブルクだった、ワイン、書籍などの広告だったが、街の環境を壊しているとは思えなかった。むしろ街を明るくし、賑わいをかもしている印象だった。デザインが洗練されていたのだと思う。
八六年夏には、モスクワの路線バスが、車体にコーラなどの大きな広告を描いて走り始めた。市内に、政治スローガンの看板ではなく、商品の宣伝が現れたのは、六十年ぶりだと話題になった。
都バスの広告は、車体の両側と後部に広告フィルムを貼り付ける方式。広告主は、ネスレ日本や日赤東京支部、チューインガムのロッテなど約九十社。
しかし、つい先日まで、東京都はバス、電車の車体にこういう大掛かりな広告をすることを条例で禁止してきた。
一九九〇年春、東京駅と千葉県とを結ぶJR京葉線の全線開通を記念して、JRは東京〜蘇我間で、電車の車体に、全線開通の広告を大きく描いて走らせる計画を決めた。
しかし都は、その電車の都内運行を拒否した。都の屋外広告物条例施行規則が、「電車の車体に表示する広告物は、電車の所有者の名称又は商標を表示するもの」と決めていたからだ。
結局、広告電車は千葉県下だけで走った。またJRは、京浜東北線で、チューインガムの広告電車を走らせようとした計画もあった。これも都に拒否された。
京葉線の全通は、バブル経済崩壊の第一歩の年である。しかし当時は、総工費千五百億円の新都庁舎建設の真っ最中で、都の鼻息はまだ荒かった。ところが九九年暮れから二〇〇〇年一月にかけて一カ月間、JR京浜東北線に、先頭と最後尾の二両を特殊なフィルムで覆ったラッピング電車が走った。まだ都条例は改正になっていなかったのに、なぜか? 真っ青な海や空を背景に、世界の子どもたちが地球と一緒に電車ごっこをするデザインで、環境保護を訴える広告だった。都は営利目的ではないという理由で、特例として認めたという。
都が車外広告禁止の方針を変えたのは、石原都知事のツルの一声だった。都営バスは、九八年度に約二十二億円の赤字を出していた。
パリが、市内二千余のバス停全部を、屋根、風防ガラス、ベンチ付きにしたのは、七〇年代だった。停留所の片側の壁の表裏には、全面に大きな広告がはめ込まれている。ドゥコーという屋外広告会社が、バス停の建設とメンテナンスを、この広告収入でまかなうという条件で始めた。広告塔以外、市内のビルや柱に広告を禁じるパリ市が、よく踏み切ったと思ったが、取材したパリっ子たちは、「パリの街角が元気になった」と語っていた。
飛行機の機体にも広告が登場する時代になった。九八年サッカーワールドカップのときは、エールフランスが機体にサッカーをする選手の姿を描いた。九八年九月に東京〜福岡間を飛び始めたスカイマークエアラインや、九九年暮れから札幌〜東京間を飛ぶエア・ドゥの機体にも広告が入っている。
飛行機の前は飛行船だった。六八年初秋、東京の空に日立製作所のカラーテレビを宣伝する飛行船、スカイシップ500が現れた。全長四十九㍍、幅十五㍍、高さ十八㍍。戦後初の有人飛行船だった。
高層ビルがまだ少ない時代で、ゆっくり飛ぶ飛行船はよく見えた。だが六九年、徳島市の海岸に係留中、三十㍍の風にあおられ、壊れた。飛行船広告は、その後も新しい機体で続いたが、九六年を最後に日本の空から姿を消す。不況のあおりである。
一方、中国では、飛行船広告が活躍しているようだ。上海のビール市場で去年、「サントリービール」がシェア一位になった。その理由のひとつは、飛行船による広告だったという。
バスでも、バス停でも、電車でも、飛行機でも、どんどん大きな広告を出すがいい。ただくれぐれも、大きいだけの、目立つだけの広告にはしないでほしい。
街が少しでも元気になり、わくわくとしてくるデザインであってほしい、と願う。
名コラムニスト、岡並木さんのアンコール・エッセイでした。(2000年5月26日号原文掲載)