徳川家康が幕府を開いた江戸の街は、エコロジーという点で世界をリードしていた。エコに配慮した街作りは衛生面にもプラスの効果があった。
エコで衛生的な江戸の都市デザインに学ぶもの
イラスト●那須盛之
徳川家康は世界の都市マネージャーとして三本の指に入る人物だと思う。江戸幕府が生まれたのは1603年。以来265年間の江戸時代、つまり17世紀から19世紀にかけての江戸、パリ、ロンドンを比べると、江戸は圧倒的に文明的だった。
その一例を都市の排泄物の始末の仕方で見てみよう。265年間に欧州の街では、20から25年おきにペスト、コレラといった経口伝染病が大流行して、計3000万人ぐらいが亡くなったという。ところが江戸はこの間に経口伝染病の大流行は3回しかなかった。なぜだろうか。
当時長崎には、何人かの外国人がオランダ商館の職員として来ていた。彼らは何回か江戸に旅している。彼らが残した記録を見ると、江戸の街や日本の街道の見事なあり方にカルチャーショックを受けている。たとえば十七世紀後半に江戸にやってきたドイツ人医師のケンペルは、『江戸参府旅行日記』の中で、こういっている。
「江戸市内の中央の街へ入っていった。道はずっと整備され、平らで幅も広くきれいになった。この主要な通りはちょうど50歩の幅があり、我々は信じがたいほどの人の群れや、大名や役人の従者......」と書き、「見事に着飾った婦人たちに出会った」と続けている。
当時の欧州では、着飾った婦人たちは街を歩けなかった。街路はすでに舗装されていたが、そこは雑排水と生ゴミの捨て場であり、時には屎尿の捨て場でもあって、つねに不潔で臭くぬかるんでいたからだ。それに対して、江戸の街は一滴の排水も、屎尿も、ひとつの生ゴミも、道に捨てることはなかった。
生ゴミ、雑排水、屎尿は、都市が生まれれば、必ずついてまわる。この始末のシステムを、江戸は街づくりのごく初期から組み込んでいた。たとえば、雑排水は奉行の管理のもとに、家の前の路地のドブに流し、ドブは表へ出ると小下水という溝につながり、小下水は大下水という溝につながり、そして川に流れる仕組みになっていた。大下水から川に流れ出すところには堰を作ってゴミを取っていた。水だけが流れ出し、含まれた養分がプランクトンを育て、江戸湾の魚の餌になった。
生ゴミは街ごとに1カ所に集めて、隅田川の河口に運び、そこに埋め立て地を作った。つまり、生ゴミはここで土に還っていった。また、屎尿はかなり高い価格で、近郊の農村にほとんど一滴残らず引き取られていった。江戸の場合、都市の排泄物は、自然のサイクルに乗せて始末するようにしていたのである。
17世紀後半、たとえば1663年、江戸の下水網が全市できちんと機能していたとき、パリの円天井型の下水道は、わずかに2.3kmしかなかった。あとは全部道路への垂れ流しだったし、生ゴミも道路が捨て場だった。
このように欧州の都市は、排泄物を捨てるという方向で処理してきたが、日本の都市は、自然に還すという考え方で処理してきた。
欧州の舗装も下水道も、辻かごや辻馬車も、そして歩道さえも、不潔な街の暮らしから、さしあたって抜け出そうという対症療法だった。これに対して17世紀以降の日本は、問題を原因から絶とうとする原因療法だったといえよう。
19世紀中ごろのドイツの有機化学者リービッヒは、中国で屎尿を畑の肥料とする姿を見て、下水を畑に還すことを主張し、欧州の都市の排泄物の処理に対する考え方が、かつての日本の道だった原因療法のほうへ大きく転換する。
日本は19世紀末、西欧の技術を形だけ学んで帰国した人たちが発言力を持つと、江戸までの文化を否定し、西欧化を急ぐあまり、西欧の対症療法の道を歩き始めてしまった。たとえば、排泄物は下水道に捨てるという方向へ変わっていく。文化の交差が起きたといっていい。
日本に帰化した文学者小泉八雲は、1894年に出た著書『知られざる日本の面影』の中で、当時の日本の高等教育を批判している。
「日本の新しい高等教育は、庶民の間にはほとんどない物質主義を異常に助長している、という観察者もいる。西洋の高等教育は、情緒的感受性を知識の拡大と結び付けるのが普通である。日本の高等教育は、高級な情感を刺激する力を持たず、若者を特殊な方向へ追いやっている」
また26年間、東大医学部のお雇い教師だったE・ベルツは、次第に外国人を疎んじる日本人同僚の目を感じるようになる。1901年、彼はついに大学を辞める。送別会の席で彼は挨拶をする。
「外国人教師たちは日本に科学の樹を育てるために来たのに、日本人は西欧の科学の樹になった果実だけを受け取ろうとしたのです。この果実をもたらした精神を学ぼうとしないのです」
それから一世紀。日本は大きな回り道をしてしまった。技術や経済偏重。そのツケが一挙に噴き出し、軌道修正の動きが出始めている。
名コラムニスト、岡並木さんのアンコール・エッセイをお届けしました。
(1995年12月26日号原文掲載)