ドイツで学んだグリッド方式で描く/大内誠さんの代表作・好きな作品

クルマが、音楽が、生き生きしていた
60年代イギリスで誕生した名車

 本誌掲載の透視図カレンダーでおなじみのテクニカルイラストレーター、大内誠さん。自身の青春時代と重なる60年代は、ビートルズやローリング・ストーンズの音楽とともに、イギリスで誕生したクルマに心を躍らせていたそうです。

作品1/ロータス・エリート

「作品1は、ル・マン24時間レースなどで活躍したLOTUS ELITE(1957〜63年製造)です。ロータスは、第2次大戦後、レーシングカーの製造販売からスタートし、そのころはキットカーの製造販売もしていました。しかし、レースの好成績で売り上げを伸ばし、市販車の量産に取り組みました。軽量で扱いやすく、レースで活躍するクルマは一般ユーザーの人気を集めました。

 ロータス・エリートの最初のデザインは、ロータス創業者、コーリン・チャップマンの友人の会計士が手がけたといわれます。ボディはFRP製で軽量化し、いまではあたりまえのストラット・サスペンションを最初に採用したクルマでした。“チャップマン・ストラット”と名づけられたサスペンションは構造がシンプルで、作品のようにコイルスプリングはボディに直付けでした。

 そのため、ファイバーボデイの痛みも激しかった。エンジンは、フォークリフトや消防車のエンジンを製造するコベントリー・クライマックス社製でした。生産拠点のコベントリー市は“伯爵夫人レディ・ゴディバの伝説”が有名で、エンジンヘッドにそのシンボルマーク(裸の女性が馬にまたがる姿)が付いています。

作品2/フォード289コブラ

 作品2は、FORD289 COBRAです。60年代、イギリスAC社の製造でACカーズと呼ばれました。その後、アメリカ人レーサーのキャロル・シェルビーが、英国製エンジンの代わりに米国製V8(フォード)を搭載。アメリカで売り出されるときにAC COBRAという車名になりました。その後、エンジンは427に変更されてアメリカ風にマッチョ化していきました」

ヨーロッパ各国で異なる透視図のタッチ
かっちりした作風とシャープな線を求めて西ドイツへ留学

   日本における透視図の第一人者であり、世界的評価を受ける大内さんは、冷戦時代の1977年、欧州が激動の時代に、当時は珍しい西ドイツへイラストの勉強のために留学されました。 「一般的に、絵の勉強は、皆さんフランスに行きますが……ボクは透視図(テクニカルアート)で世界的に高名なヘルベルト・シュレンツィヒ(Herbert Schlenzig)先生の教えを受けるため、ツテを頼りに単身渡欧しました。シュレンツィヒ先生のシャープな線の描写に感動し、また海外生活への憧れもありました。ミュンヘン五輪テロ事件から5年後の1977年、28歳のときでした。

 まず、シュレンツィヒ先生に自分の作品を見てもらい、作画の手順を説明して、評価を聞こうとドキドキしていましたら、先生から返ってきたのは“時間の無駄です”という意外な答えでした。作品の評価を受けると思っていたボクは面食らいました。先生は続けて“もっと基礎を学びなさい”と。

 それからは、先生が採用していたグリッド方式を懸命に学びました。グリッド方式を習得すると、それまで作画の過程で迷っていた部分が解消され、下絵にかかる時間は3分の1に短縮されました。“時間の無駄”とはこういうことだったのか!と気づき、迷ったときに戻るべき基礎の大切さを学びました。

 先生の仕事ぶりは、多くの仕事を抱え、睡眠は2〜3時間という多忙な日々でした。奥様は気さくな方で、“夫は機械のように仕事をするから”と心配されていました。先生の家でいただく夕食の定番メニューは、酸味の効いたザワークラウト(キャベツの酢漬け)、ソーセージ、硬めのドイツパンという質素なもの。ダイニングには先生の好きなベルト・ケンプフェルト楽団の“ブルーレディに紅い薔薇”“夜のストレンジャー”“スパニッシュアイズ”などの音楽が繰り返し流れていました。

 留学は1年半でした。帰国は完成したばかりの成田空港に到着しました(1978年5月開港)。今日、思えば、西ドイツで学んだ基礎があったから、膨大な仕事が乗り越えられたと実感しています」

おおうちまこと/1949年、茨城県水戸市出身。法政大学卒業。モーターマガジン『オートスコープ』に自動車透視図を連載。1977年から1年半、西ドイツに留学。ミュンヘンのH.Schlenzig氏のもとでテクニカルイラストを学ぶ。 帰国後、テクニカルアートを中心にクルマを描き続ける。AAF(オートモビル・アート連盟)会員。東京都在住

インタビュアー/山内トモコ

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