1927年、リンドバーグはニューヨーク〜パリ間の冒険飛行に成功。全世界が興奮しました。1930年代からアメリカで航空旅客輸送が本格化しました。
[旅客機クロニクル]
●1935年 ダグラスDC-3、デビュー
●1938年 ボーイング 307 ストラトライナー、デビュー
●1943年 ロッキード・コンステレーション、デビュー
●1947年 ダグラス DC-6、デビュー etc.
飛行機イラストの第一人者、佐竹政夫さんは、中でもコンステレーションがお気に入り。今回はその魅力をたっぷり語っていただきます。
1940年代、飛行機の旅は、人々の大きなステータスでした。国際線旅客機の主力となった4発エンジンを持つ大型レシプロ機は大空の花形。ロッキード・コンステレーションは“憧れの星”でした。作品は3点ともロッキード・コンステレーションです。作品①は、ホワイトハウス上空を飛行する姿。作品②は、エンジン始動のシーン。作品③は地上から見上げた機体です。
コンステレーションの胴体の特徴は、前輪の脚柱を短くするため機首が少し下がり、また、離陸時に機体後部が地面に接触するのを防ぐため機体後方が少し上がっていました。このわずかな曲線が作り出す美しいフォルムから、“空の貴婦人”という愛称がつけられ、史上最もスピード感のあるデザインと称賛されました。 コンステレーション誕生までのエピソード集です。
開発・製造したロッキード社は、第2次大戦前からスピード機を得意とした航空機メーカーで、すべての機体に星の名前を付けていました。
たとえば、こと座の恒星(織姫星)から命名された旅客機ロッキード・ベガ(1927年初飛行)は、ウィリー・ポスト(1931年世界一周飛行成功)やアメリア・イアハート(1932年女性初の大西洋単独横断飛行成功)など、名パイロットたちが数多くの世界記録を達成した機体として“レコードブレイカー”とも呼ばれました。ジェット機時代も「トライスター」など星の名は引き継がれました。
アメリカの大富豪ハワード・ヒューズ(1905〜76年)と飛行機の関係は、レオナルド・ディカプリオ主演映画『アビエイター』(マーティン・スコセッシ監督。2004年)でも描かれました。
1930年代、飛行機の世界では発展途上のアメリカで、ヒューズは、莫大な親の遺産をもとに大空への夢と未来に情熱を注ぎチャレンジを重ねました。航空機製造会社を設立して飛行機を開発し、自らの操縦で世界一周最速記録(1938年。記録は91時間)を樹立。米国航空宇宙技術の最高賞コリアー・トロフィーを受賞。
1939年、ヒューズは、航空会社経営にも進出してアメリカの大手航空会社T&WA(のちTWA社)を買収。導入予定の大型旅客機として開発されたのがロッキード・コンステレーションでした。当時、最大速度550km、上昇限度8000m、航続距離5000kmの高性能旅客機を製造できるメーカーはロッキード社だけで、ヒユーズは40機を発注。
ところが、ロッキード社はT&WAに開発・製造費1700万㌦の支払いは不可能だとしてその依頼を拒否しました。ヒューズは「T&WAが払うのではない、私が出すのだ !」と言い放ったという逸話があります。ヒューズには、旅行客で満席のコンステレーションが大西洋を行き来し、T&WAはナンバーワンの航空会社になるという確信があったのでしょう。
完成したコンステレーションは当時の戦闘機よりも速く、この高性能旅客機はたちまち陸軍輸送機として徴用され、日本占領軍司令官として厚木に降り立ったマッカーサーやアイゼンハワー大統領など政府高官の専用機に使用されました。 戦後、世界中の航空会社に導入されたコンステレーション。飛行機好きのイラストレーターにもファンが多い、不動の人気です。
インタビュアー/山内トモコ
さたけまさお/1949年、千葉県出身。69年からフリーで国内外 のプラモデルメーカーのパッケージアートをはじめ、トム・クランシーなどの冒険小説、雑誌の表紙や挿絵などを多数手がける。航空ジャーナリスト協会理事、航空自衛隊航空美術協力会理事、 AAF(オートモビル・アート連盟)会員。千葉県松戸市在住
やまうちともこ/TOKYO-FMパーソナリティを20年以上つとめ、インタビューした人1000名以上。映画評論家・品田雄吉門下生。ライター&エディター