【時代の証言】あのバブル期の「チャレンジ精神」が、現代の魅力あるクルマの原点。日本は凄かった! by大谷達也

現在の東京都庁は1991年に完成。新宿の景観を劇的に変え、バブル期の象徴となった。設計は世界的な建築家の丹下健三氏。地上202mの45階には展望スペースがある

現在の東京都庁は1991年に完成。新宿の景観を劇的に変え、バブル期の象徴となった。設計は世界的な建築家の丹下健三氏。地上202mの45階には展望スペースがある

バブル期の恩恵で巨額の開発資金の入手に成功

 1980年代から1990年代の日本について語るとき、バブル景気について触れないわけにはいかない。1985年、先進5ヵ国の大蔵大臣/財務大臣と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集まり、ドル安に向けて協調行動を起こす「プラザ合意」を決めると、海外の投資家は日本の金融市場に次々と資金を投入。この結果、株価や地価が高騰するバブル景気が巻き起こり、日本国内の経済活動はかつてないほど活発になって内需が爆発的に拡大したのである。

 これが起爆剤となって日本の自動車メーカーは巨額の開発資金を手に入れることになる。折しも、戦後、成長を続けてきた日本の自動車産業界は技術や品質の面で世界トップクラスに肩を並べるレベルにまで成長していた。自動車雑誌でしきりと「日本車はヨーロッパ車を追い越したか?」という企画が組まれたのも、この時期だ。

 世界のトップレベルに立とうとしていたのは、自動車産業ばかりではなかった。家電や半導体を中心とする電気産業界も同様だった。社会全体に活気がみなぎり、日本人は自信に満ちていた。アメリカの社会学者であるエズラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を著したのは1979年のことだ。当時の日本は、まさにそれを地で行くような状況だった。

NSX

GT-R

「失敗」より「チャレンジしないこと」のほうが問題だった!

 日本の自動車産業界に話を戻そう。この時代、技術面や商品企画面でありとあらゆるチャレンジが実践された。ホンダNSXや日産スカイラインGT-R(R32)は、当時の国内自動車産業界の技術的な到達点を示すものだ。いっぽうで軽自動車のスポーツカーがホンダ、スズキ、マツダから登場。ガルウィングドアのモデルもマツダやトヨタから世に送り出された。今では考えられないが、「面白そうな企画だったら、なんでも試してみろ!」という機運に満ちていたのだ。

 私は1984年に国内電機メーカーの研究所に就職したが、「10個の研究テーマのうち、ひとつでもモノになればいい」という主旨のことを上司に言われた記憶がある。言い換えれば、「失敗よりも挑戦しないことのほうが問題視された時代」だった。

 結果として、この時期の日本の自動車メーカーは多くのことを学んだ。燃焼に関する研究が進んでDOHC4バルブ・エンジンが当たり前になり、ターボチャージャーに代表される過給技術を積極的に採用するとともに、それを正確にコントロールする電子制御技術が進化した。シャシー面ではダブルウィッシュボーン・サスペンションやマルチリンク・サスペンションが実用化され、ここにも電子制御技術が採り入れられていった。ナビゲーションシステムに代表される装備類が一気に充実したのも、この頃だ。

ロードスター

レガシィ

 歴史的に見ても、この時代の自動車技術の進化はすさまじかった。エンジンやシャシーの基礎研究が一定のレベルに到達するとともに、電子制御技術が開花したことで、自動車に関係するありとあらゆるテクノロジーが急速に進化した。日本の自動車メーカーは、これに加えてバブル景気で潤沢な資金を手に入れたことで、世界に先んじるペースで技術革新を実践していったのである。

日本を支えたアメリカ、そして中国市場。次の30年にも期待が持てる

 しかし、金融経済が実体経済をはるかに上回っていたことで、1991年に日本のバブル景気は崩壊。国内経済は急減速を強いられた。バブル景気が崩壊してからの自動車産業界を下支えしたのは、圧倒的なスケールを誇るアメリカの自動車市場だった。日本の自動車メーカーは信頼性が高く、燃費に優れた製品を次々とアメリカに投入。爆発的な人気を呼び、落ち込みつつある国内の需要を補った。電気産業も同様で、内需の落ち込みを輸出によってカバーしたのである。
 その後の日本の自動車産業界は、アメリカに続いて台頭した中国市場にも進出。結果として「失われた30年間」ともいわれる国内の景気停滞をなんとか生き延びることに成功した。

ハリアー

レインボーブリッジ

 では、1980年代から1990年代にかけて見られたあの“輝き”は、日本になにを残し、どんな未来をもたらそうとしているのか? いまの日本の自動車産業界が高い競争力を保っていられるのは、バブル景気の時代にありとあらゆるチャレンジを行ない、様々な技術と経験を習得したからにほかならない。そのとき得た“財産”で、日本はその後の30年間を生き延びてこられたといって間違いないだろう。

 そのいっぽうで、日本人らしいきめ細かさや、地道に進化/熟成させていく姿勢も、この30年間の日本の発展に大きく役立ってきた。おかげで、自動車産業に限らず、様々な材料技術でいまも日本は世界のトップに立っている。個人的には、そうした技術資産を活かせば、次の30年間も日本は輝き続けられると予想している。不足しているものがあるとすれば、様々な要素技術をひとつの革新的な製品としてまとめあげるアイデアと、ちょっとした自信だけだと、私は強く信じている。

 

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