20世紀最大の発明物は「自動車」と言われる。エンジンを積み自由に移動できる自動車の出現によって、人間はさまざまな発見をし、新たな経験を積めるようになった。自動車はいわば自由の象徴だった。
本田宗一郎は、自動車に魅了されたひとりである。飛行機も、オートバイも、およそエンジンで動き、人間の行動を拡大する“乗り物”に本田は興味を抱き、魅了された。中でも自動車は特別な存在だった。
1906年、静岡県磐田郡、現在の浜松市天竜区で鍛冶屋をしていた儀平の長男として誕生した宗一郎は、幼少期から「乗り物好き」な子供だったという。村に、当時まだ珍しかった自動車がやってくると、その後を夢中で追いかけ、排気ガスを胸いっぱいに吸い込むのが習慣だった。1917年には、浜松に飛行機がやってくるという噂を聞きつけ、夜中に家を抜け出し「アート・スミスの曲芸飛行」を見にでかける。近くの木の上から曲芸飛行を堪能した宗一郎は、心の底から自由に空を駆け回る飛行機に魅了された。
1922年に高等小学校を卒業すると、自ら進んで東京の自動車修理工場、アート商会に丁稚奉公に入り、さまざまな経験を積む。6年後にはのれん分けを果たし、浜松にアート商会の支店を開設するまでになった。ちなみにアート商会の社長からのれん分けを許されたのは、宗一郎だけだったという。乗り物、とりわけ自動車に対する熱い思いが、宗一郎を超一級のメカニックに成長させたのだ。その後、1937年に東海精機重工業(現・東海精機工業)を興し、エンジンの重要部品となるピストンリングの研究開発に邁進。この時期、宗一郎は自らの知識が不足していることを痛感し、浜松高等専門学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となっている。
ピストンリングの研究開発は、宗一郎の“自動車を作りたい”という強い夢が原点だった。アート商会・浜松支店は、多くの顧客を抱え大繁盛していた。宗一郎が、どんな故障でも見事に修理してくれるからである。しかしフォード車をどんなに完璧に修理しても、それは宗一郎製の自動車ではない。フォードはフォードだ。それに宗一郎は我慢できなくなっていた。宗一郎は自動車そのもの、百歩譲ってもエンジンを自らの手で作りたいと考えていた。しかしそれは難しい。そこで、エンジンの重要部品、ピストンリングを作ることを決心する。ピストンリングとは、エンジンのピストンとシリンダーの間にある文字通りのリングで、オイルやガソリンが。シリンダーの中で混ざらないようにする部品だった。一見すると金属製のリングにすぎず、製造はそれほど難しくないように思えた。しかしシリンダー内の爆発にさらされ、しかも熱の変化も激しいだけに特別な材質の調合と、高度な鋳造技術を必要とした。宗一郎のピストンリングは何度作っても不良品ばかり。宗一郎がピストンリングの試作に成功するのは1939年のことだった。
終戦が、宗一郎の新たな転機となった。1945年、宗一郎は東海精機重工業の株をすべて売却し、1年間の休養に入る。休養といっても病気で体調を崩したわけではない。本来の夢である“自動車製造”に向けての準備に入ったのだ。
1946年には夢の実現のため「本田技術研究所」を設立する。当初は当時不足していた布を織る自動織機の開発をはじめたと言う。しかし、ここで転機が訪れる。友人の犬飼兼三郎が、旧陸軍の6号無線機用小型発電エンジンを、なにかに使えないかと持ち込んだのだ。妻が自転車で買いだしにでかけるのを見て、「自転車にエンジンをつけたら楽になるだろう」と考えていた宗一郎は、自転車に装着した。このアイデアは秀逸で、自転車とオートバイの中間の“新たな乗り物”が誕生する。さっそくエンジン製造元の三国商工に残っていた500基の小型エンジンを買い取り、浜松の自社工場で自転車に組み付け発売する。1946年12月に販売を開始した最初の“原動機付き自転車”は、まさに飛ぶように売れた。すぐにエンジンの在庫が底をつく。
宗一郎は、この発電エンジンをもとに、2ストローク・50ccのエンジンを新規開発することを決心した。1947年7月に通称“煙突エンジン”と呼ばれた試作エンジンが完成。さらに改良を重ねボア×ストローク40×40mm、ロータリーバルブ、1ps/5000rpmの出力を持つホンダ初の量産エンジン、A型が11月に完成した。
A型エンジンを組み付けた原動機付き自転車は大好評で、全国から買い付け業者が殺到。工場前に行列を作るほどだった。結局A型原動機付き自転車は、発売6ヵ月で1430万円もの売上げを本田技術研究所にもたらした。A型原動機付き自転車の成功が、宗一郎の次なる飛躍を準備した。
宗一郎とスタッフは、A型に続き、B型、C型エンジンを次々にリリース。1950年に、さらに高性能なD型エンジンを搭載した「ドリーム号D型」を発売。翌1952年にはパワーユニットを新設計149cc(5.5ps)のE型に積み替えた「ドリーム号E型」を発表する。E型号は急峻な箱根を一気に駆け上がれるパワフルさと4ストロークならではの静粛性から爆発的なヒットとなり、2輪メーカーとしてのホンダポジショニングを不動のものにする。
1958年には、スカートをはいた女性でも運転できる“タフで頑丈な生活のパートナー”ともいうべき新コンセプトの2輪車「スーパーカブC100型」が誕生。スーパーカブは庶民のバイクとして大ヒットとなり、数年後にはアメリカにも輸出される国際商品となった。
機は熟した。2輪で成功した宗一郎は、いよいよ念願の4輪自動車へチャレンジする。1958年3月には、後に初代Sシリーズのプロジェクトリーダー的な役割りを果たす中村良夫(第一期ホンダF1チャレンジのチーム監督も務めた)がホンダに入社。この時期から4輪プロジェクトは本格始動した。
1960年に、新規メーカーの4輪車生産を事実上禁止する「特定産業振興法」の存在が明らかになったことも開発を急がせた。開発チームには、宗一郎も参加し、昼夜分たず仕事に没頭。しかし、当初はコンセプトがまとまらなかった。最終的に方向性が決定したのは1962年のはじめ。宗一郎は開発チームに「おい、スポーツカーだ!」と叫んだという。
スポーツカーといっても、宗一郎が考えたのは金持ち向けモデルではない。一般のサラリーマンでも、ちょっと無理をすれば買える小型軽量の2シータースポーツである。大衆にとって高嶺の花であったスポーツカーを、低価格で発売することに宗一郎の夢があった。スポーツカーの楽しさを、多くの人たちに開放したい。目指したのはスポーツカーの大衆化だった。それは、ホンダらしい独創的なドリームプロジェクトだった。
※文中、敬称略