ガンディーニの自宅はトリノ郊外の丘の上に建っていた。30年余り前に初めて訪ねたとき、「あなたの業績を表す言葉として、スーパーカーのデザイナーか、スーパーなカーデザイナーか、どちらがふさわしい?」と問い掛けた。するとガンディーニは穏やかに笑いながら、「どちらでもないよ。私はただのカーデザイナーだ」と答えてくれた。
そんなマルチェロ・ガンディーニが2024年3月13日に亡くなり、1カ月後の「オートモビルカウンシル」で急遽、彼がデザインした5台の名車による追悼展が行われた。いずれも名門カロッツェリア、ベルトーネに在籍した時期の作品が並んだ。
1965年11月にベルトーネのチーフデザイナーだったジウジアーロが退職し、後任の座を得たのがガンディーニである。2人は同じ1938年生まれだが、すでに実績を積み重ねていたジウジアーロに対して、ガンディーニにカーデザインの経験はほとんどなかった。
音楽家の父の勧めで文化芸術系の5年制高校に進んだが、機械好きの彼にとって授業は退屈でしかない。親の期待に背いて中退すると、エンジニアリングを独学しながら、自活するために友人のクルマの改造からディスコの内装まで、頼まれれば何でもデザインした。
やがてカーデザインへの夢を膨らませたガンディーニは作品集をまとめ、友人たちに見せて回る。幸運にもそれがベルトーネの総帥、ヌッチオ・ベルトーネの目に止まったのだが、ヌッチオから吉報が届くまでには1年以上もかかった。27歳の無名の新人が名門のチーフに抜擢された瞬間だった。
翌1966年3月のジュネーブ・ショーでベルトーネはミウラを発表し、これがガンディーニの出世作になった。ただしヌッチオの意向があったのだろう、ミウラにはジウジアーロ時代の作風が残る。ガンディーニが独自スタイルを開拓するのは、量産車でいえば1968年発表のエスパーダからだ。カウンタックやX1/9、ストラトスなどのシャープなウエッジシェイプは、1970年代のトレンドを牽引した。
1979年にベルトーネを辞したガンディーニはルノーと5年間の独占契約を結び、2代目サンクなどを手掛けている。その後は自宅に設けたスタジオを拠点に、フリーランスとしてディアブロ、マセラティの2代目ギブリや4代目クアトロポルテなどをデザインした。
間違いなく巨匠だが、彼は自慢話などしない。「自分の本性は楽天的で怠惰だ。それを知っているから、仕事に没頭する」と語っていたのを思い出す。享年85歳だった。